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坂倉準三設計:旧飯箸邸保存活動

 

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  • 旧飯箸邸の危機とシンポジウムの開催

    「旧飯箸邸が解体の危機にある。」そんな情報が伝わってきたのは2006年の春のことでした。旧飯箸邸は、ル・コルビュジェの直弟子である坂倉準三が、パリ万国博覧会日本館の設計で見事グランプリを受賞した後、日本へ帰国して最初に手がけた作品です。1941年竣工のこの住宅は、團伊能氏の別邸として建てられて飯箸氏が居住し、後に後輩の美術評論家の今泉篤男氏に譲られ、2006年当時は息女家族の住まいとなっていました。偏心した切妻の大屋根と、ペリアンに学んだという居間南側の大きな扉が特徴の住宅です。船の甲板につかわれるチーク材を特殊なルートで調達してフローリングとして用いたり、壁面を仙台石と漆喰で仕上げ、水洗トイレや床暖房、木製シャッターまで装備した住宅は戦時体制の厳しい状況下に竣工したとは思えない作品です。土地の周辺環境を見事に取込みながら、優れた職人の技術と貴重な建築資材を用いて建てられた飯箸邸は前川国男の自邸にも影響を与え、モダニズム建築の傑作として、国際組織DOCOMOMOの115選にも選定されました。坂倉準三の原点ともいえる、この貴重な木造住宅が、建築後65年を経た現在でもほぼ戦前当時のままの姿で現存していたことは多くの関係者を驚かせ喜ばせましたが、同時に遅くともその年の11月には解体されるという事実は大きな失望も与えました。相続の関係で、土地の売却と建物の解体が既に決定しており、もはや唯一残された保存の方法は、移築のみという状況だったのです。NPO法人「せたがや街並保存再生の会」が先んじて移築保存に向けた活動を展開していましたが、確実な見通しは得られていませんでした。

    残された時間はわずかであり、保存に向けてできるだけ多くのひとびとの知恵と力を結集することが急務であると考え、わたしたちは坂倉準三の事務所の末裔としてできうることを模索しはじめました。まずひとつは、飯箸邸の設計担当者である駒田氏に当時の設計時や施工時の様子をヒアリングして記録に残し、また、同僚やOB/OGに協働の呼び掛けをしたことです。もうひとつは,シンポジウムを開催し、飯箸邸の危機と保存の必要性を広く訴えることにしました。ほとんど準備もないままに、わたしたちが発起人となって2006年9月18日(月)に工学院大学にて行った「坂倉準三設計:旧飯箸邸に関する緊急シンポジウム」では、定員を遥かに超える参加者が来場し、11月という目前に迫ったタイムリミットを踏まえつつ、今何ができるか、何を成すべきかを中心に、旧飯箸邸の建築的な評価も再確認しながら、パネリストだけでなく、来場者も含めた活発な議論が展開されました。しかしながら、個人資産である住宅を関係者以外によって移築・保存しようと試みる事は、プライベートに踏み込む事であり、加えて制度上の問題も大きく、保存の困難さが改めて浮き彫りとなったのでした。

    (DETAILS-2へ続く)

  • 緊急シンポジウムから移築先決定まで

    わたしたちは、旧飯箸邸の保存を訴えるシンポジウムの開催と平行し、先んじて旧飯箸邸の世田谷区内保存に努力していたNPO「せたがや街並保存再生の会」と連絡を取り合いながら、移築受入れ先の候補を探り奔走しました。移築に限らず、解体建材の一時保管なども含めてあらゆる可能性を探りましたが、いくつかの受入れ先が浮かんでは消え、移築保存の実現は大変厳しいものでした。

    打診先の候補がほぼ出尽くした後、坂倉準三のご子息である坂倉竹之助氏に改めて相談した際、ひとつの可能性が浮上しました。坂倉氏が依頼を受け、軽井沢追分で検討を始めていた有名シェフのレストランに転用するという案です。解体が間近に迫っている現実と向き合っていたわたしたちにとっては、限られた時間と条件のなかで考えうる最良の受入れ先であると思われましたが、先んじて活動していたNPOの活動を尊重し、世田谷区との交渉結果が出るまで見守ることにしました。この後、2006年10月中旬、世田谷区内に保存できる見込みはないという最終結論を受けたため、11月より軽井沢移転に向けた取り組みを開始しました。

    移築保存を実現するためには多くの協力が必要になるため、組織を再編し、発起人4人(坂倉建築研究所OB/OG:佐藤由紀子・篠田義男・藤木隆明・藤木隆男)に加え、現役とOB有志を加え総勢9名の体制にし、会の名称を「旧飯箸邸 記録と保存の会」として旧飯箸邸移築保存プロジェクトを始動させました。

    会では,所有者や工事関係者との折衝、数年前まで旧飯箸邸の工事を担っていた大工さんへのヒアリング、学識経験者との意見交換、専門家への協力依頼などを進め、移築に向けた具体的な検討を行いました。また、JIAから出された保存要望書により関係企業にも理解を得ることができ,飯箸邸の実測調査と解体中の調査が可能となりました。調査は記録の少ない飯箸邸の資料の補強となるだけでなく、施工方法を解明することによりどのような移築が可能かを判断する材料ともなりました。

    本来であれば完全移築が望ましかったのですが、工期および費用の面とともに、築後65年という材料の不確実性から全ての部材を移築することはできそうもない状況であることが判明したため、旧飯箸邸を語る上で重要な要素である暖炉、和室、建具、テラスの石、居間の床材などを保存メニューとして移築し、そのほかはできる限り忠実に再現するという方針となりました。

    ほとんどが再築で等々力から移設できるものは一部になるという現状に対し、「何をもって移築保存ができたと言えるのか」に関しては会のメンバーの中でも意見が分かれたのですが、シンポジウムに出席いただいた学識経験者、実務経験者との意見交換を経て、移築メニューの着地点をまとめました。完全移築が実現できないのは残念ではありましたが、取り壊しやむなしといった状況にあったことを考えれば最善であったと思います。

    (DETAILS-3へ続く)

  • 実測調査とサンプル、記録の収集

    「旧飯箸邸 記録と保存の会」では、「移築の保存活動」と平行して、「記録の保存活動」も行いました。資料の少ない旧飯箸邸の現存している状態をできるだけ多く記録し、後世に伝える必要があると考えたためです。

    記録保存の柱は実測調査と映像記録および実物サンプルの採取でした。実測調査は坂倉OB/OG/現役ボランティアによって旧飯箸邸の現況を綿密に調査し、記録に残すこととしました。2006年12月3日より20日までの週3回、外構/建物外部を中心とした調査を行い、12月21日から1月7日までは年末年始の3日間を除き、連日の室内調査となりました(調査に従事した延べ人数250名、佐藤由紀子は1日の休みもなく調査に参加し,現場調整や調査日報の記録等にあたりました)。

    2007年1月9日から解体が始まりましたが、工事関係者の協力により、壊してみないとわからない軸組や内部構造の調査および構造材、仕上げ材、設備機器などの主要な実物サンプルの採集を解体時に行うことができました。映像としては、写真とハイビジョンビデオにより記録を残しました。複数のプロ写真家の手弁当の協力のおかげで、実測調査時はもちろん、解体調査時についても貴重な記録を残すことができました。

    解体工事直前には、65年もの間、現存した感謝とねぎらいを込め、年末に総勢22名で大掃除を行ったのですが、大掃除後の旧飯箸邸を見て、誰もが住みたいと口をそろえて言うほど、豊かで美しい竣工当時の姿が蘇りました。

    軽井沢への移築が実現

    こうして旧飯箸邸は、軽井沢・追分の地に建設中であった分譲型別荘地「追分倶楽部」の一角に移築され、2007年7月、高級フレンチ・レストランとして新たな命を吹き込まれました。「追分倶楽部」は、古き良き軽井沢を目指して計画された別荘地であり、レストランのオーナーシェフ三國清三氏は、その料理の腕前だけでなく、芸術の良き理解者としても知られています。住宅から店舗への用途変更にあたってやむを得ない部分については坂倉竹之助氏が設計変更を行っていますが、可能な限り等々力に現存していた当時を目指しました。

    文化的に薫り高い街をつくりたいという事業者と芸術に造詣の深いオーナーが坂倉準三のご子息を介して出会ったことで、旧飯箸邸の移築保存は奇跡的に実現したのです。こうした奇跡を呼び寄せたのは、保存に関わった数多くの人々の熱い思いにほかならないでしょう。(写真17〜20:移築後)